Jリーグ百年構想を知るための、
5つのストーリー
理念の伝道師。
川淵三郎初代チェアマン
今から約25年前の、2001年7月にJリーグが発行した「21世紀のスポーツに向けて」に掲載された、川淵三郎初代チェアマンのインタビューを掲載します。
四半世紀前と現在で、Jリーグを取り巻く環境はどのように変化したのでしょうか。
地域に根差したスポーツクラブづくり
川淵 三郎
開会宣言
「スポーツを愛する多くのファンの皆さまに支えられまして、Jリーグは今日、ここに大きな夢の実現に向けてその第一歩を踏み出します」。1993年5月15日のJリーグの開会式で私はこう宣言した。この宣言文は、Jリーグの理念をできるだけ簡潔に表現しようと、ワールドカップ アメリカ大会の第1次予選が行われていたアラブ首長国連邦の滞在中にあれこれ考え抜いた末のものだった。
1960年、日本代表選手の一員として行ったドイツ・デュイスブルク スポーツシューレで見た緑豊かなスポーツ施設がいつも頭の中にある。この開会宣言は言い換えれば、「素晴らしい緑の芝生の上で、老若男女、運動が得意な人も苦手な人も、それぞれのレベルに応じて優れた指導者のもとに好きなスポーツを楽しめる「地域に根差したスポーツクラブ」を目指す、と同時に、世界に通用する選手を育てていく、そういう夢を実現するためにJリーグが今日スタートしたのです」ということになる。
Jリーグのネーミング
日本で“プロサッカー”という名称にすれば、大先輩であるプロ野球と同じコンセプトと見られるのは当然のことである。プロとしての興行は同じでも、根本的にプロ野球とはコンセプトが異なる。それは、Jリーグのクラブは下部組織を持ち、地域住民や自治体・企業の支援を受けて気軽にいろいろなスポーツを楽しめる場所づくりを目指している点だ。従って、コンセプトの違いを区別する意味で“プロサッカー”という言い方を避けたかったし、また日本のプロサッカーが世界のサッカー界から親しみを持って呼んでもらえるような単純なネーミングがよいということで「Jリーグ」としたのだ。
なぜプロなのか
日本サッカーの恩人といわれたデットマール・クラマー氏の「日本のサッカーが世界の檜舞台に出て行くためには、トップチームだけのリーグ戦を組織する必要がある」という提言により、1965年、東京オリンピックの翌年に日本サッカーリーグ(JSL)が結成された。当初8チームでスタートしたJSLは、1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダル獲得をもたらした。しかし、その後チーム数が12に増えたものの、ワールドカップはおろかオリンピックの予選すら突破できない状態が20年以上も続いた。これでは日本サッカーのレベルアップのためにつくったJSLが機能していないことになる。一体、問題点はどこにあるのか、そのことを分析し活性化の方向を模索しているうちにプロ化に行き当たったといえる。
1960年代は企業スポーツといえども選手は仕事中心で、会社に「サッカーをさせてもらっている」という状態だった。1970年代になると企業がスポーツによるPR効果を評価しはじめ、有名選手の獲得に優遇措置を考えるようになった。その結果、今度は会社が選手に「サッカーをしてもらう」という状態になり立場が逆転した。
1980年代に入ると、仕事をしなくてもサッカーだけやっていればいい、いわゆる"企業アマチュア"が増えてきた。しかし日本体育協会の中にはアマチュア委員会が厳として存在し、プロ化への道は閉ざされていた。そのようなアマでもないプロでもない中途半端な存在そのものが、世界への道を閉ざしているのではないか――。それは、選手や監督、コーチにとっては居心地のいい環境であったともいえる。というのも、観客に感動や興奮を与えるような素晴らしいプレーをしなくても、端的に言えば、観客が一人も入らなくて入場料収入がゼロであっても、選手や監督には会社のサッカー部の予算から給料が支払われるからだ。しかしながら、選手の身分保障は会社によってまちまちで、使い捨てにされるケースもなきにしもあらずだった。こんな状態ではいい選手も強いチームも育つわけがなかった。そんな在り方を変えるためにはしくみそのものを根本的に変える必要がある。さもないと日本のサッカーはいつまでたっても世界の檜舞台にでることはできない。問題を突き詰めていった結果、“企業スポーツ”から“市民スポーツ”へと脱皮しない限り現状から抜け出せないという結論になった。
そこで、ドイツの町々にあるような地域に根差したスポーツを楽しみ、そのクラブのプロサッカーチームが試合をする日には「みんなで応援に行こう、地元のチームだから、自分たちのクラブのチームだから」という環境になってはじめていい選手が育ち、多くのファンもサポートしてくれる。そのことがクラブの経営的自立につながり、その利益でスポーツの施設を増やし、優秀な指導者、選手を育てていくことができる。そのくらいの大胆な改革を実行しない限り、日本のサッカーは100年経っても世界に追いつけない。
デュイスブルク・スポーツシューレ
東京オリンピックを4年後に控え、日本サッカー協会は画期的な決断をし、当時西ドイツサッカー協会のコーチであったデットマール・クラマー氏に日本代表チームの指導を依頼した。
1960年8月18日、デュッセルドルフの空港で初めてクラマー氏と会った後、バスでデュイスブルクのスポーツシューレに向かった。その時の印象が私の日記にこう記されている。
「18日午後2時、スポーツシューレに着く。まず、真緑の見事な芝生のグラウンドに驚かされる。3棟の体育館,その真ん中に宿泊所と食堂、さらに教室、事務所もあり、それが実に清潔そのものの感じである。簡単な食事をとる。食堂は広々としていて清潔で200人は楽に座って食事ができる。そこから外を見ると周囲はみな芝生のグラウンドで、それが白樺の林に囲まれてまるで公園に来ているようだ。八つも芝生のグラウンドがあるそうだ。午後4時。トレパンに着替え、散歩がてらスポーツシューレの中を見学して回る。折から200人ばかりの、8歳から16歳までの少年が約1週間の合宿期間中で、興味深く僕らの挙動を見守っていた。2、3日後にこの組が合宿を終えた後、さらにまた別の200人が合宿に入るそうである。これじゃあ強くならない方が不思議である。樹木が多く環境は最高だ。それに芝生も深く厚く、日本ではちょっと見ることができない。連日練習しても平気だそうだ。体育館で自転車のサッカー練習をしていた。まるで曲芸を見るようで実にうまい。これも10歳足らずの子どもが大人に混じってやっていた。これらの施設はすべてサッカーの試合で儲けたお金でつくったそうで、サッカー協会に属し、ドイツの中に10以上もこのような施設があるそうだ。日本のプロ野球とも段違いの差だ。ここで約1週間練習するのかと思うと興奮してなかなか眠れなかった」。
1960年代のデュイスブルク・スポーツシューレ
当時は日本のトップスポーツである野球でさえ貧弱な施設しかなかったのを情けなく思ったものだ。サイクルサッカーを初めて見た時の驚きもさることながら、体育館で10人ぐらいの車椅子に乗った人たちが、低いネットを張ってバレーボールのような競技を楽しんでいる光景を見た時のショックは大変なものだった。体の不自由な人がスポーツを楽しむなんて当時の日本ではとても考えられないことだったからだ。「ドイツに生れた人は幸せだなぁ」としみじみ思ったものだ。
2000年代の同施設
その頃の日本代表チームは芝生のグラウンドで練習する機会などほとんどなかった。青々とした芝生の上でのプレーは、ボールコントロールやドリブル、シュートがたやすくでき、急に上手になったような気がする。「こんな場所で毎日練習できたらサッカーが楽しくできるのに。早く上手になるのに」と心底そう思った。しかし日本でそれを望むのは何年経っても無理だろう、ましてや体に障害を持つ人までもがスポーツを楽しめる環境などできるわけがない、そう思っていた。
勝利至上主義
今の日本は、スポーツに限らずあらゆるものが勝利至上主義であるように思う。勝利を目指すこと自体は悪いことではない。「負けてたまるか」という気持ちはむしろ向上意欲そのものにつながる意味からも必要である。しかし、卑劣な手段を用いたり、見つからない限りルール違反をしてでも勝てばいいというのは、国際社会での日本の孤立を生み、日本社会の歪みにもつながっていると思う。
日本では、“グッドルーザー”は生まれにくい。それは、子どもの時代からそういう方向で育てられていないからではないだろうか。子どもたちにとって、思いやり、いたわり、優しさ、犠性的精神、リーダーシップ、協調性、仲間意識、連帯感、責任感、自己主張など、社会生活を営む上で必要な人間性が自然のうちに培える機会や場所が少ないように思う。また、人体の骨格は15歳までに形成されるそうだが、しっかりした心肺機能を持つ意味でも、少年時代に健全な体づくりをする必要がある。そういった精神や肉体はスポーツを通じて培えるものが多い。しかし、今の子どもたちにはスポーツを楽しむための広場や原っぱがない。テレビゲームが遊びの中心になり、人間同士がふれあう機会が減り、ますます人間関係が疎外される方向に進んでいく。大人になってから構築しようとしても「時すでに遅し」だ。
学校の部活動は、学校を代表するチームづくりを目指すために、能力の劣る生徒は敬遠されがちである。たとえ優秀な指導者であっても、部員が50人もいれば全員に目が届かないからどうしてもレギュラー中心の指導になる。それ以外の生徒はスポーツを楽しむどころか、特に下級生などは球拾いのためにいるようなものになっている。
日本では、スポーツが好きでも運動能力が劣る子どもたちにはスポーツを楽しむ場所がない。人間性を養い、人間関係を構築する一番大切な時期に体を動かすことの大切さを忘れていることに問題があるように思う。必ず答えのある勉強や暗記力中心の教育では、どう判断を下すのかを考える能力、柔軟性を持った考え方をする能力が十分育つとは思えない。自由な発想をする人間を育てる意味でも、遊ぶこと、スポーツをすることは大切だ。Jリーグはそういう子どもたちのための原っぱ、広場づくりを目指している。
スポーツのあるべき姿
日曜日、ロンドン市の真ん中にある緑の樹木と見事な芝生のハイドパークでは、あちこちでサッカーを楽しむ姿が見られる。ゴールはカバンやトレパンを置いただけのものだ。大人も子どもも、ユニフォームを着ている子もTシャツの子も、スパイクを履いている子どもも裸足の子もみんな一緒にサッカーを楽しんでいる。
仲間に入れてほしいと言うと即座にOKだ。レフェリーはいない。自分たちで判断する。時々もめるがすぐに解決する。結構激しくプレーするが、傷つけるような危険なプレーは絶対にしない。レベルの違う子どももちゃんと配慮して仲間として扱っている。さすがにスポーツ発祥の国だけあって、フェアプレーの何たるかをよく知っている。
こんな在り様を日本に求めるのは所詮無理な話だ。思わず走り回りたくなるような、だれが遊んでもいい芝生の広場など日本ではほとんど見ることができないからだ。国土が狭いからそんな余裕がないと言う人もいるが、実際は必要性を認めなかっただけのことで、つくろうと思えば絶対にできたはずだ。
日本は、スポーツは土の上でやるものだと思っている数少ないスポーツ後進国である。寒い河川敷のグラウンドでユニフォームに着替え、埃っぽい土の上で試合をした後、ガタガタ震えながら冷たい水道の水で汚れを落として帰路につく。これが日本で見慣れた光景だ。スポーツをした後の満足感や達成感、開放感はクラブハウスの温かいシャワーとともにあることを理解する為政者は少ない。
4年間のシカゴ生活から帰国した友人に聞いた話だが、シカゴのリトルリーグはチーム力が偏らないように毎月地域社会のボランティアが調整してメンバーを編成し、全員が試合に出場できるように1チーム15人以内と決められている。だから、チーム数はものすごく多い。しかし球場も数多くあり、家族やボランティアの協力でスムーズに運営されているという。球場の整備役、チームの指導役、サンドイッチを準備する役など、順番を決めて家族ぐるみでサポートする。週2回の夕方からの練習には、会社帰りのお父さんがよく顔を出す。ユニフォームは地域の企業が寄附をしてくれているが、その代わりユニフォームの胸には会社名が入っている。友人の子どものユニフォームには葬儀屋の名前がついているそうだ。
友人の子どもは低学年のうえに、いわゆる運動神経がないと言われるタイプ。しかし、その子がバッターボックスに立つと、年上の仲間はもちろん、応援に来ている家族までが一生懸命に声援を送ってくれる。空振りしても「ナイストライ、ナイストライ」と手をたたいて必死に応援してくれる。そんな光景を見て両親は胸が熱くなり、涙がでてきたという。
アメリカ独立記念日の7月4日に各チームから一人ずつ選ばれてオールスター戦が行われ、野球のシーズンが終わる。そして、サッカー、アイスホッケー、アメリカンフットボールなどの季節に入る。アメリカの子どもたちはこのシーズン制のお陰で、いろんな競技を楽しむことができるのだ。そういう中で一流のスポーツ選手が育っていく。アメリカ社会の持つ包容力とともに、スポーツに対するものの考え方がよく理解できる話だ。
これからの地域社会での生き方
日本はそろそろこれまでの会社中心の生活から解き放たれる時期に来ている。定年退職後、それまで参加したこともなかった地域社会にいきなり溶け込もうとしても、人間関係が難しく、またせっかくゲートボールに誘われても急に年寄りになった感じがして気が進まないものだと聞く。
そもそもゲートボールにしても、土の上でお年寄りばかりでやっていることにだれも疑問を感じていない。欧米のスポーツ先進国ではあのような競技は芝生の上でやるものだと決まっている。緑の芝生は人の心をウキウキさせるし、一つひとつのプレーが易しくできる。明日もまたプレーしたいという意欲が湧く。
子どもたちが側を通りかかって、「おじいさん、僕も仲間に入れてよ。芝生の上でやるのは楽しそうだから」ということになれば、“よこ社会”の関係だけではなく“たて社会”との関係が持てるようになる。芝生を自分たちで大切に育てようという意識も生まれ、そこにボランティアとして運営に参加し、みんなの世話をする機会が増える。ちょっとしたクラブハウスでもあれば、寄り合い場所にもなる。これからの時代はそういう時代だ。
しかし、今は、地域社会に生きようとしてもどうしていいのかわからない。地域での核がないから。寄り合う場所がないから。
Jリーグの目指すもの
気軽にスポーツを楽しむためには、自宅から近くの小学校ほどの距離にスポーツ施設があったほうがいい。とすると、全国の小学校の数ほどスポーツ施設が必要だということになる。しかし、いきなりそんなことを言ってみても物笑いの種になるだけだ。学校施設の地域開放はかなり進んでいるようだが、土のグラウンドというところが今一つ魅力に欠ける。
当初、企業やマスメディアに、ヨーロッパや南米のスポーツクラブの施設や運営、市民や行政のサポートについていくら説明してもなかなか理解してもらえなかった。日本にはスポーツクラブなど根づくわけがない、と。
それでも粘り強く企業のトップに理解を求め、また“バブル経済”という時の利も味方して、1991年11月、Jリーグは「地域に根差したスポーツクラブをつくろう」という決意のもとに誕生させることができた。もちろん、Jリーグはプロとしての収入を得るために世界に通用する選手やスター選手の育成、魅力あるチームづくりに最善を尽くさなければならない。それがあってはじめて地域社会に貢献するための経済基盤を盤石のものにできるのだ。
Jリーグは「地域スポーツ振興活動」として、各クラブが地域社会と協力して行うスポーツイベントに積極的に取り組んでいる。サッカーはもちろん、フットサル、バレーボール、バスケットボール、ビーチバレー、車椅子サッカー等の大会の開催や協力等のほかに、クリニックや指導者研修会も実施。活動は年々活発化している。また、広島では、県内に拠点を置く、各競技のトップリーグに所属する、サッカーのサンフレッチェ広島、バレーボールのJTサンダース、ハンドボールの湧永製薬ハンドボール部、イズミ女子ハンドボール部、バスケットボールの広島銀行ブルーフレイムズの5団体が「トップス広島」という組織を結成し、広島のスポーツ振興のために活動を開始した。この活動が発展し、日本中に「トップス〇〇」という組織が誕生すればと期待している。
地域に根差したスポーツクラブ
スペインのFCバルセロナは、12万人を収容できる自前のスタジアムと12万人の会員組織を持つ世界最大のスポーツクラブだ。サッカーを筆頭にアイスホッケー、バスケットポール、ハンドボールなどのプロチームを有し、アマチュアでは野球、ラグビー、バレーボールなど八つの競技チームが活動できる十分な施設を持っている。
FCバルセロナのユニフォームにはスポンサーの企業名がついていない。80億円の価値だが、「どうして付けないのか」という質問に対して会長は、「クラブのプライドが許さない。仮に経済的に行き詰まっても、資金が必要なときは12万の会員が喜んで我々を支えてくれる」と明言していた。その会長は無報酬、5年ごとに会員全員の選挙で選ばれる。何十年か先には日本にもこんなクラブが出現してほしいと思う。
隣近所が集まってフットサルのチームをつくり、週1回リーグ戦を行う。試合が終わってシャワーを浴びた後、「今日のお母さんのシュートは凄かったね」と家族みんなでクラブハウスのレストランで談笑する。すぐ近くでは「今度はバスケットボールに挑戦だ」と、同年代や世代の違うグループがテーブルを囲んでいる。グループが違ってもみんな顔なじみだ。そこへ、Jクラブのスター選手が家族と食事にやってくる。軽く挨拶を交わした後は、最近のチームの成績や将来性のあるユース選手についてひとしきり話が弾む――。こんな光景を見ることができる日を、私はいつも夢見ている。
デュイスブルク・スポーツシューレのような施設が日本にできるのは20年、30年と思っていたが、Jリーグの理念に賛同して下さった東京電力が、1997年に福島県にデュイスブルクに勝るとも劣らない素晴らしいスポーツ施設、「Jヴィレッジ」を完成させた。5000人収容のスタジアムが1面、天然芝の練習グラウンドが10面、トラック付きグラウンド、そのほかフットサルコートや雨天練習場、そして宿泊施設やコンベンションボールなども完備。現在は、日本代表の強化合宿や各地のスポーツ少年団の合宿、Jリーグをはじめとするスポーツ団体や企業の研修会、音楽コンサートなどにも利用されている。
Jリーグは世界に通用するトップレベルのサッカー選手を育てる一方で、子どもたちの広場、原っぱづくりを目指している。幸いにも日本という国は動き出すと意外と早い。Jクラブをサンプルとして、日本中にみんながスポーツを満喫できる場所が数多くできることを、心から願っている。







